仕事を辞めてから、重苦しい暗闇の中で、ただじっと身を固めて毎日を耐え忍んでいた。日付が変われば、人生で有利になる経験値が増えるわけでも、仕事が見つかるわけでも、気持ちが晴れるわけでもないのに。
身体を動かせず、混沌とした憂鬱の中をただ漂流していた。
今年に入ってようやく自らの意思で身体を動かせるようになってきた。それでもまだ時間の経過を待つだけだった頃の癖が抜けず、どこにいても「今日が早く終わりますように」と思っている。
そのことに気が付いたのは、何気ない瞬間だった。まだ日も落ち切っていないうちに、冷蔵庫から酎ハイの缶を手に取った。時間の経過があまりに鈍臭く感じて、焦燥感で身体が腐敗しそうだった。
「これを飲めば、時間が早く過ぎる」
当然の事象のように、胸の内でそう呟いてハッとした。
好きな時に出掛けられる頻度も増えた、趣味も楽しめるようになってきた、それなのになぜ、起きていることが怖いのだ。
起きている時間が長いと、出来ないことも増える。例えば、風呂掃除や読書や英単語の暗記学習…、やりたいことは山ほどあるのに、時間によって集中力には起伏がある。
意識があるなら出来るはずなのに、身体がついて来ずにできない、そういった失敗経験が増えてしまう。
だから、起きているのが怖い。また「出来ない」と自分を責めるきっかけが増えるのではないか、と。
そもそも自分自身が仕事を辞めるまでメンタルバランスを崩してしまったことには、出来ないことをカウントするクセ、も関係しているんだろう。それならばこの調子では復職できてもまた調子を崩すかもしれない。
『出来ないことより出来ることを大切にする』
世の中では散々言われていることだ。私も何度もチャレンジしては、その都度失敗してきた。続いても数日。気が付くと、その言葉すら忘れているのだ。だが何度失敗しても良い。今度は上手くいくかも。
そういうわけでは、改めて、自分の思考のクセを変える努力をすることに決めた。
『出来ないことをカウントするクセを治す』という目的は曖昧なので、手始めに『終わってほしくない、と思えるようにその日を過ごす』ことを決めた。
私はベランダで過ごすのが好きだ。プライベートな空間でありながら、外の空気を感じられる。開放的でありながら、誰もこちらには関与してこないという安心感がある。
そこでベランダ晩酌を決行することにした。
自分の好きな空間で、好きなものを食べる。最高じゃないか。
気持ちが落ち着かない時は、身体を冷やす料理よりも芯まで温まれるような料理が良い。
鉄板を持ってきて餃子を焼くか、家にある野菜をふんだんに使って煮込みラーメンを作るか…。献立を考えていると、シャクシュカのことを思い出した。ぐつぐつ煮込まれたトマトソースに卵を落とした料理で、中東や北アフリカを中心に広い地域で食されているそうな。
トマトソースと卵という組み合わせは、ラーメンでしか食べたことがない。味の想像が全くつかないが、真っ赤なソースの中にのびのびと寝転ぶ白と黄色の卵の色合いを見ていたら、どうしても食べてみたくなった。
調べると、材料が少なく、自宅にあるもので作れそうである。
そこで早速フライパンを用意した。使うのは、トマト缶、玉ねぎ、ピーマン、クミン、塩コショウ、卵。クミンというちゃんとしたスパイスは我が家には置いていないので、カレー粉で代用することにした。
玉ねぎとピーマンを細かく切ったら、卵以外の材料をフライパンへ入れて火にかける。

ぐつぐつと煮立って味がなじんだら、卵を落として蒸らして完成。使いかけのモッツァレラチーズがあったので、それも入れた。

食べやすいサイズにカットしたトーストも用意して、お盆に載せたらベランダへレッツゴー。

まずはそのまま一口。トマトの酸味と玉ねぎのしゃきっと爽やかな食感。鼻の奥でふんわりとカレー粉が香る。

続いて黄身にスプーンを入れると、濃厚な色味がゆるやかにトマトソースに溶けだした。トマトソースとよく混ざっていそうな部分を一口。もったりと濃い卵の甘みがトマトソースの酸味と交わって、何とも心温まる味わい。

ワインを用意していたが、結局一滴も飲まずに夢中になって食べすすめた。お酒のお供にするには、あまりに優しい。この人にだけは悪い姿は見せられない、という気持ちにさせられる。
ただ、きっとこれはシャクシュカではないんだろう。やはりカレー粉の主張を感じる。ギリギリカレーにならずに済んだトマトソースといった感じ。これはこれで美味しいが、今度はクミンを用意した上でレシピ通りに作ろうと思う。
飲み忘れていたワインを飲み干し室内へ戻る頃には、すっかり指先が冷えていた。


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