20代最後の誕生日

20代最後の誕生日は妹が一緒に過ごしてくれた。彼氏と同棲をするために今年実家を出た妹。週に5日働いていて疲れているはずなのに、彼氏と同棲を始めたばかりで一緒にいたいはずなのに、何の力にもなれていない私のために1日を空けてくれるというその優しさが痛んだ心に沁みた。

場所はディズニーシー。先月、二人で飲んだ時に酔っぱらった勢いで決めた。

その時、私達は向かい合って手を取り合い、大号泣していた。妹が何べんも「詩織ちゃんは大事なお姉ちゃんだよ」と言ってくれたことだけ覚えている。なぜ二人でしゃくりあげて泣いていたのかは記憶になく、翌日の瞼は蒸籠で蒸したのかと疑うほど熱かった。

ディズニーシーに入園後、園内を散策しながらふっとその時のことを妹に聞いてみた。

「どうして泣いてたんだっけ?」

すると、思いもよらない返答が返ってきた。

「詩織ちゃんが突然泣き始めたんだよ。それまで普通に話していたのに。びっくりだよ」

どうも何の脈絡もなく私が勢いよく泣き始めたのだそうだ。そしてそんな私を慰めるうち、妹も涙が止まらなくなったのだそうだが、まったく記憶にない。

突然泣き出した私を心配して、妹から迎えに頼まれた母に連れられて千鳥足で帰宅した。


脈絡もなく泣き出すほど精神的に参っているつもりはなかったが、誕生日ディズニーから帰宅すると不意に涙が溢れてきた。

先日アルバイトも決まり、これから社会復帰に向けて立て直しを図ろうと歩み出したばかりと言うのに、たとえ形式的には働けるようになったとしても、心はいつまでも空しいまま変わらないような気がしたのだ。

これまでの職場での経験を振り返っても、いつも何かを忘れているような間違った場所にいるような虚しさが足元に広がっていた。

職場での交友関係が円滑でも、業務内容や職務形態に不満がなくても、何かをずっと間違えているような、もっとすべきことがあるような焦燥感に駆られており、仕事を終えて家に帰っても心が休まることはなかった。

現実には起こっていない問題で、ずっと悩んでいるような気分。

振り返れば、幼少のころからそうだった。小学校に上がって以降、ずっと自分の在るべき場所を間違えているような気がしている。不安が強い自分の特性ゆえだろうか。それならば専門家に罹れば、なにか変わるんだろうか。

十代の終わり、二十代の頭、そんな自分のまま生きていくことが想像できずに幾つかの専門機関に相談したりメールを送ったりしたことをふっと思いだした。救いを求めて行ったそれらの行為が相手にされることはなく、気づけば自分すら諦めるようになっていた。


以前、「不安が強いなら、それを放っておくべきではない。コントロールできるよう、仕組みをしることだ。放置せずに怯えていても仕方がないだろう(ニュアンス)」と言っている人を見かけたことがある。確かスポーツ系のメンタルコーチのような仕事をしている方で、その言葉に頷くと同時に、「でも仕組みを知ってすぐに改善されるわけではないから、根気強く思考を矯正しなくちゃいけないんだよな。それが何より大変で、その途中でいつも心が折れてしまうんだよな」と独りごちた。

しかし失敗なら何度だってして良い。いつまでも諦めの気持ちでぷかぷかと悲観の海を揺蕩っていても仕方がない。改めて、矯正できるよう努力しよう。

今度はきちんと継続できるように、もっと綿密に計画をたてて行うべきだ。自暴自棄になって、変わることを放棄してしまわないように工夫をしよう。


もしかしたら、いつか自分は自らの手で人生に終止符を打つのかもしれない、と漠然とではあるがずっと思っている。そのことだけは悲観的でなく、ただ本当に起こるような気がしているのだ。そのことを考えると、心が落ち着くまである。

誰かと寄り添いあって生きる未来が微塵も想像できないし、仕事だってこれまで続いてこなかった。自分のために生計をたてることが、果たして出来るだろうか。

しなくちゃいけないことが分かっていても、できてこなかったのだ。耐え続けるくらいなら、生きることを放棄してしまおうという自分のほうがよっぽど身近だった。

この自分を和らげないことには、いずれ本当に起こるんだろう。


と、まぁ暗い話ばかりしていても仕方がない。

これまでの1年間、仕事もせず何も考えずにぼんやりと寝て過ごした。

改めて、今日からは志高く努力をしよう。以前作っていた年間・月間目標シート、週間計画表も再開し、人として殻を破っていけるよう努力しよう。

実りある一年にしよう。

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