先日、ケンケンの散歩から帰った母が目を見開いて私に迫ってきた。
「ねえ、ケンケンが女の人にばかり吠えるの。しかも吠える前に唸るのよ」
一年ほど前から家族になったミニチュアシュナウザーのケンケンは、散歩デビューしてからというもの、誰に似たのかとても社交的な犬として通ってきた。
犬の匂いを嗅ぎつけると、姿も見えぬうちからしっぽをフリフリ、強くリードを引いて匂いの方へと飼い主を誘導する。時には相手の犬に警戒され、唸られることもあったが、飛び掛かることも噛みつくこともしないので、人には好かれた。
特に父はケンケンの社交性の高さが嬉しいらしく、敢えて犬の多い時間に散歩に出かけては、帰るなり
「ケンケンは今日も褒められたぞ。お利口ですね、可愛いですねぇって」
と満面の笑みで私たち家族に報告し、ケンケンに向き直ると
「なぁ。今日もいっぱいワンちゃんに会ったなぁ、ケンケン。君はお利口さんだって。可愛いですねっていっぱい言われたなぁ」
と改めて言葉を交わすのが習慣だった。
そんなケンケンがなぜ、突然に女性にばかり吠えるようになったのか。散歩の担当は大抵父で、次に私。母が散歩に連れていくことは珍しかったので、母を守らなくてはと気合が入ってしまったのか。
それにしても、これまで余程怪しい動きをする人以外に吠えたことはない。先週末だって、初対面の妹の彼氏によく懐いていたそうだし。
怪訝に思い、ケンケンの様子を窺っていると、ふとある出来事を思い出した。
それは、この出来事のつい一日前のこと。母と買い物に出かけた時、その道中で
「ねぇ、聞いた?パパ、ケンケンと散歩に行っている時に女の人に怒鳴られたんですって」
母が話し始めた。
「その女の人もねワンちゃんを連れていて、ケンケンが尻尾を振って近づこうとしたから、念のため『近づいても良いですか』って聞いたらしいのよ。そうしたら、突然、その女の人が『良いわけないでしょ!』って怒鳴ったんですって」
その話を聞いて、私は大層驚いた。父は男性にしては小柄だが、年の割には体つきがしっかりしており、太い眉毛はいつも不服げに皺寄せしている。正直言って近づきがたい雰囲気があるように思っていたからだ。
会話の内容自体よりも、父親に怒鳴る人がいることに大変驚いた。
父に声を荒げる人間がいることに対してあまりに現実味をもてずにいたので、あまり深く捉えていなかったが、それを間近で見ていたケンケンはもしかしたら凄く怖かったのかもしれない。
犬に家族内カーストという意識があるのかは知らないが、家族の中でもケンケンは父の言うことをよく聞く。
私や母が「ハウス」と言っても、そっぽを向いたり、突然上目遣いにこちらを誘惑したりするが、父が「ハウス」と言うとすんなりゲージに入る。
何か良からぬものを咥えた時、私は遠くからボウルやおやつで呼ばないことには咥えたものを離さないが、父が「ゴラッ!」と短く怒ると、咥えていたものをスッと離す。
そんな風にして、自分にとって絶対的な存在だった父親が目の前で見知らぬ女性に怒鳴られた様子は、ケンケンにとって強いショックだったのかもしれない。
真相はわかりかねるが、今夜、ケンケンと散歩に行って様子を確かめるつもりだ。もし知らない女性に対して恐怖心を抱くようになっているのなら、少しずつ、大丈夫だよと教えてあげなくては。

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